「ひとつ前のポスト、栗城史多さんの死に接して(加筆)で、生と死について深く考えました。
これは輪廻転生についての問いです。
最初に断っておきますが、私は宗教学者でも、どこぞの教祖でも、はたまたスーパーサイヤ人でもありません。ただの自遊人です。
少々オカルトチックに聞こえるかもしれませんが、輪廻転生の考え方はどの宗教にもあり、仏教経典にも書かれていると聞きました。
2009年、私はインドを旅しました。ガンジス川のほとりで人が焼かれて行くのを眺めました。人間は死ねば自然に帰る。特別な生き物ではなくて、自然の一部なのだと改めて気付かされました。
ヒンドゥー教にはお墓がありません。母なるガンジス川に灰を流してもらうことが最高の弔いです。それは亡くなった魂が、次の命を生きるという考えが根底にあるからだと、最高カーストに属するガイドから聞きました。
仏教の生まれた地であるインドでは、いまや仏教は廃れてヒンドゥー教が主流ですが、輪廻転生はヒンドゥー教に継承されて強く残り、インドの生活の中に深く根付いています。もともと輪廻転生は仏教以前からインドにある土着の考えなのです。
このインドを起源とする仏教の輪廻転生を調べてみると、ああ、こういうことだったのかと、ストンと腑に落ちる瞬間がやって来ました。
要約すれば、生と死は交互にやって来る、魂の乗り物の肉体は滅びても魂は永遠なのだというのです。
人生は山あり谷あり、いい時もあれば辛い時もあります。むしろ辛い時の方が多いでしょう。時に自暴自棄になって自死を選んでしまう、そういう人を身近にお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
輪廻転生では、自死を選ぶ人は前世でも同じ運命を生きてきて、現世でも同じことを試されます。それを乗り越えていけば、より高い魂として次の命に生まれ変わります。
逆に、現世で自死を選んでしまうと、次の命でも自死に直面する辛いことが再びやって来るということです。
後述するように、現世で魂を磨けば、来世ではより高い魂として生まれ変わりますよ、そんなふうに輪廻転生は教えてくれています。
私は生と死というもの、死生観について、欧州に住んでいるときに考えました。半ば強制的に考えさせられたと言って良いでしょう。
かの地はキリスト教を拠り所とする地です。周囲から「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれます。それは信ずる宗教にによってその人の考え方や人柄を探りたいからです。
しかし、日本人は宗教というものを、日常で意識することがありません。
生まれたら神社へ、お盆はお坊さんがきて、新年は神社へ初詣に出掛け、死んだらお寺へ。
それを外国人に告げると、日本人はクレイジーだと言って理解してもらえません。
否が応でも自分の宗教について説明できる必要性に迫られました。しかし、仏教についてどれだけ知っているかと考えた時、はて、仏教とは何か、知っていたようで説明できない、そんな自分に気が付きました。
そこで仏教を知ろう、そう思い至りました。
宗教というものは、どう生きるかを教えてくれます。人は生きていく中で沢山の迷いに出会います。道に迷ったときは地図が必要です。その迷ったとき時の地図になるのが宗教だと私は捉えています。
私の実家は愛知県にあり、浄土真宗大谷派です。何それ。
実家に帰って仏壇を開くと、浄土真宗大谷派、総本山は京都の駅近くにある東本願寺であることが分かりました。そんなことは知りませんでしたが、仏壇にある念仏の本の後ろにそう書いてありました。
ああ、私はここに属していたのか、その時に初めて気付きました。そこから日本の仏教について調べ始めました
日本の仏教には様々な宗派が存在し、浄土真宗はその一部であることを知りました。それは下図のようになっています。
浄土真宗大谷派は、京都駅の北、歩いてすぐの東本願寺が本山(本拠地)です。日本で最大級の仏教宗派で、宗祖は親鸞聖人。その名前は一度は聞いたことがあるでしょう。
日本でどれだけの宗教があり、その人数を示す「宗教年鑑」を文化庁が毎年まとめています。平成29年の宗教年鑑を読んでみると、全ての信者数は,182,266,404 人で、各宗教の信者数は下図のようになっています。
仏教派はもっと多いと思っていましたが、神道系よりやや多いくらいで、全体の大部分を二分していまるのが分かります。
不思議なことに総数が日本の人口を上回っています。恐らく各宗教の自己申告数をただ積算しただけで、重複や、自分の宗教を大きく見せて多め申告する、といったことを無視していると想像します。
これで自分が属する仏教、宗派、宗祖、そしてその数と日本の全人口の中での割合が分かりました。
ちなみに、仏教徒が世界で占める割合もみてみましょう。
1位.キリスト教(世界人口の約32%)
2位.イスラム教(世界人口の約23%)
3位.ヒンドゥー教(世界人口の約15%)
4位.仏教(世界人口の約7%)
輪廻転生に話を戻しましょう。
死生観と輪廻とは密接に関係しています。私の理解を簡潔に示すとこうなります。
そして輪廻は、
ここでは魂は命と同義語です。
磨かれた魂は、仏教でいうところの解脱をめざします。
人は誰しも、いつか来る死の瞬間が怖い。分かっていれば怖くありませんが、誰も生きている人は死を体験していないので教えてくれる人は居ません。唯一、宗教がそれを教えてくれています。これはもう信ずるか否かの問題で、自分が納得できれば何でも良いのです。
キリスト教徒が神を信じるのも同じで、彼らは神の導くところで生きています。
日本でも神道は神を持つので、神の導きで信徒は日々の生活を生きています。
仏教徒はというと、普通の人は日常で宗教などは意識もしていないでしょう。
私は輪廻転生という考え方を受け入れました。それによって生きていくことが楽になりました。
いま生きている私の魂は、与えられた生きる時間、つまり命が終わればその役目を終えてリセットされる。そして次の命へと魂が注がれていく。そんな風に捉えることにしました。
紀元前5世紀ごろと言われる仏教の起源から数えて2500年。そんな昔に既にこの哲学的な考えが完成していたことに驚くと共に、先人の偉大さ、変わらぬ人間の苦悩を思います。
京都駅を出て直ぐのところに東本願寺があります。そこにはこう書かれています。
私はこの言葉が好きです。
魂が私の体に棲んで、その肉体を使って人生と言う名の時空の旅をしている。それを出来る時間はひとりひとりに与えられていて、しかし、その日数は誰も知らない。
その命は、きょう終わるかもしれない。明日かも、あるいは10年後、20年後、50年後かもしれない。
分からないから、今日一日を大切に生きる。昨日と違う今日を。
生きることと死ぬことは表裏一体であることが、これでお判りでしょう。死を見つめることにより、より良い生を得ることができる、そんなふうに感じます。
父の死、そして栗城史多さんの死によって、そんな出会いが得られました。導きに感謝します。
重ねて書きますが、仏教の受け売りでも売り込みでも、はたまた東本願寺の回し者でもありません。私が生きていく拠り所として、私が共感できるものを選んだ結果が上述の言葉と輪廻転生です。
もし違うと考える方がいらっしゃるのなら、ご自身でその考えをブログでも出版物でも著して、発信してください。そのURLをお知らせいただくことは一向に構いません。ここでは「私の考え」を発信していることを改めて記しておきます。
ではでは@三川屋幾朗
つづきは・・・
偶然は必然/続・人生の愉しみ方:死生観は「生きる」を見つけること
そこで、ひとつ質問です。
「あなたの前世は何ですか?」
ガンジス川に昇る朝日
これは輪廻転生についての問いです。
最初に断っておきますが、私は宗教学者でも、どこぞの教祖でも、はたまたスーパーサイヤ人でもありません。ただの自遊人です。
少々オカルトチックに聞こえるかもしれませんが、輪廻転生の考え方はどの宗教にもあり、仏教経典にも書かれていると聞きました。
2009年、私はインドを旅しました。ガンジス川のほとりで人が焼かれて行くのを眺めました。人間は死ねば自然に帰る。特別な生き物ではなくて、自然の一部なのだと改めて気付かされました。
ヒンドゥー教にはお墓がありません。母なるガンジス川に灰を流してもらうことが最高の弔いです。それは亡くなった魂が、次の命を生きるという考えが根底にあるからだと、最高カーストに属するガイドから聞きました。
仏教の生まれた地であるインドでは、いまや仏教は廃れてヒンドゥー教が主流ですが、輪廻転生はヒンドゥー教に継承されて強く残り、インドの生活の中に深く根付いています。もともと輪廻転生は仏教以前からインドにある土着の考えなのです。
このインドを起源とする仏教の輪廻転生を調べてみると、ああ、こういうことだったのかと、ストンと腑に落ちる瞬間がやって来ました。
要約すれば、生と死は交互にやって来る、魂の乗り物の肉体は滅びても魂は永遠なのだというのです。
人生は山あり谷あり、いい時もあれば辛い時もあります。むしろ辛い時の方が多いでしょう。時に自暴自棄になって自死を選んでしまう、そういう人を身近にお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
輪廻転生では、自死を選ぶ人は前世でも同じ運命を生きてきて、現世でも同じことを試されます。それを乗り越えていけば、より高い魂として次の命に生まれ変わります。
逆に、現世で自死を選んでしまうと、次の命でも自死に直面する辛いことが再びやって来るということです。
後述するように、現世で魂を磨けば、来世ではより高い魂として生まれ変わりますよ、そんなふうに輪廻転生は教えてくれています。
自分は仏教徒なのだと気付いた
私は生と死というもの、死生観について、欧州に住んでいるときに考えました。半ば強制的に考えさせられたと言って良いでしょう。
かの地はキリスト教を拠り所とする地です。周囲から「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれます。それは信ずる宗教にによってその人の考え方や人柄を探りたいからです。
しかし、日本人は宗教というものを、日常で意識することがありません。
生まれたら神社へ、お盆はお坊さんがきて、新年は神社へ初詣に出掛け、死んだらお寺へ。
それを外国人に告げると、日本人はクレイジーだと言って理解してもらえません。
否が応でも自分の宗教について説明できる必要性に迫られました。しかし、仏教についてどれだけ知っているかと考えた時、はて、仏教とは何か、知っていたようで説明できない、そんな自分に気が付きました。
そこで仏教を知ろう、そう思い至りました。
宗教というものは、どう生きるかを教えてくれます。人は生きていく中で沢山の迷いに出会います。道に迷ったときは地図が必要です。その迷ったとき時の地図になるのが宗教だと私は捉えています。
そこで仏教について調べてみた
私の実家は愛知県にあり、浄土真宗大谷派です。何それ。
実家に帰って仏壇を開くと、浄土真宗大谷派、総本山は京都の駅近くにある東本願寺であることが分かりました。そんなことは知りませんでしたが、仏壇にある念仏の本の後ろにそう書いてありました。
ああ、私はここに属していたのか、その時に初めて気付きました。そこから日本の仏教について調べ始めました
日本の仏教には様々な宗派が存在し、浄土真宗はその一部であることを知りました。それは下図のようになっています。
出典:Wikipedia「日本の仏教」より
浄土真宗大谷派は、京都駅の北、歩いてすぐの東本願寺が本山(本拠地)です。日本で最大級の仏教宗派で、宗祖は親鸞聖人。その名前は一度は聞いたことがあるでしょう。
浄土真宗大谷派は、信者数が浄土真宗本願寺派に次ぐ巨大勢力で800万人弱とされています。親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗、真宗、一向宗の三つを合わせると1600万人弱ですから、日本の人口の12.5%という大きな宗派です。
日本でどれだけの宗教があり、その人数を示す「宗教年鑑」を文化庁が毎年まとめています。平成29年の宗教年鑑を読んでみると、全ての信者数は,182,266,404 人で、各宗教の信者数は下図のようになっています。
仏教派はもっと多いと思っていましたが、神道系よりやや多いくらいで、全体の大部分を二分していまるのが分かります。
不思議なことに総数が日本の人口を上回っています。恐らく各宗教の自己申告数をただ積算しただけで、重複や、自分の宗教を大きく見せて多め申告する、といったことを無視していると想像します。
これで自分が属する仏教、宗派、宗祖、そしてその数と日本の全人口の中での割合が分かりました。
ちなみに、仏教徒が世界で占める割合もみてみましょう。
1位.キリスト教(世界人口の約32%)
2位.イスラム教(世界人口の約23%)
3位.ヒンドゥー教(世界人口の約15%)
4位.仏教(世界人口の約7%)
世界で4番目で、ヒンドゥー教より少ないとは、ちょっと意外でした。
死について考えることは、生について考えること
輪廻転生に話を戻しましょう。
死生観と輪廻とは密接に関係しています。私の理解を簡潔に示すとこうなります。
- 肉体は魂の乗り物
- その乗り物には寿命がある
- その寿命(時間)を使って「今」の瞬間を楽しむのが人生
- 未来だって「今という瞬間」が考えていること
そして輪廻は、
- 魂は新しい肉体で蘇り、次の人生を生きる
- 輪廻は魂の進化の場
- 人生は魂の修行の場であり「この世」は魂の修練の場
- 修練により魂は磨かれ、輪廻で魂はより高いレベルに上がっていく
- ここでは魂は命と同義語
- ひとつの人生は魂の修練の一単位
- ひと命=ひと人生(1命=1人生)
ここでは魂は命と同義語です。
磨かれた魂は、仏教でいうところの解脱をめざします。
輪廻転生で「死を超越」する
人は誰しも、いつか来る死の瞬間が怖い。分かっていれば怖くありませんが、誰も生きている人は死を体験していないので教えてくれる人は居ません。唯一、宗教がそれを教えてくれています。これはもう信ずるか否かの問題で、自分が納得できれば何でも良いのです。
キリスト教徒が神を信じるのも同じで、彼らは神の導くところで生きています。
日本でも神道は神を持つので、神の導きで信徒は日々の生活を生きています。
仏教徒はというと、普通の人は日常で宗教などは意識もしていないでしょう。
私は輪廻転生という考え方を受け入れました。それによって生きていくことが楽になりました。
いま生きている私の魂は、与えられた生きる時間、つまり命が終わればその役目を終えてリセットされる。そして次の命へと魂が注がれていく。そんな風に捉えることにしました。
紀元前5世紀ごろと言われる仏教の起源から数えて2500年。そんな昔に既にこの哲学的な考えが完成していたことに驚くと共に、先人の偉大さ、変わらぬ人間の苦悩を思います。
いのちがあなたを生きている
京都駅を出て直ぐのところに東本願寺があります。そこにはこう書かれています。
「今、いのちがあなたを生きている」
私はこの言葉が好きです。
魂が私の体に棲んで、その肉体を使って人生と言う名の時空の旅をしている。それを出来る時間はひとりひとりに与えられていて、しかし、その日数は誰も知らない。
その命は、きょう終わるかもしれない。明日かも、あるいは10年後、20年後、50年後かもしれない。
分からないから、今日一日を大切に生きる。昨日と違う今日を。
生きることと死ぬことは表裏一体であることが、これでお判りでしょう。死を見つめることにより、より良い生を得ることができる、そんなふうに感じます。
父の死、そして栗城史多さんの死によって、そんな出会いが得られました。導きに感謝します。
重ねて書きますが、仏教の受け売りでも売り込みでも、はたまた東本願寺の回し者でもありません。私が生きていく拠り所として、私が共感できるものを選んだ結果が上述の言葉と輪廻転生です。
ご注意
ここまで書いた輪廻転生や仏教について、全ての事柄は、私が調べ私が考えたものです。仏教学者、宗教学者、僧侶、その他の仏教に詳しい方には心外なことが書かれているかも知れません。あくまでも私の理解ですから、それ以上でもそれ以下でもありません。ご意見は拝聴しますが、異論も反論も必要ありません。もし違うと考える方がいらっしゃるのなら、ご自身でその考えをブログでも出版物でも著して、発信してください。そのURLをお知らせいただくことは一向に構いません。ここでは「私の考え」を発信していることを改めて記しておきます。
ではでは@三川屋幾朗
つづきは・・・
偶然は必然/続・人生の愉しみ方:死生観は「生きる」を見つけること
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