あれから8年:東日本大震災


発災した、そのとき


東日本大震災から8年。その日の、その時のことを思い出します。

18階建てのマンションの7階。揺れ始めた部屋の中でPCに向かっていました。グラグラ揺れる壁一面に置いた本棚。大型フラットテレビが転げ落ちそうになり、慌てて下に降ろして平に置きました。ベッドルームに同サイズのテレビがあるので、飛んで行って下に降ろして、ベランダに出て外を見ると、電柱が揺れ、電線が揺れています。

玄関を出ると、目の前が国道14号線。車がノロノロと進み、人は立ち尽くしています。

ツイッターに次々に流れてくる現状報告。その夥しい数と、【拡散希望】【緊急】【至急】の文字。徐々に交通が遮断され、帰宅できなくなった人の群れが、目の前の国道14号線を千葉方面に進んで行きます。それが延々と、一晩、途切れることなく続きました。





阪神・淡路大震災があったから


それよりももっと前、1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起きました。

当時のことはよく覚えています。

テレビの画面には傾いたビル、倒れた高速道路、それが早朝に起こったゆえに、ひと気が画面から感じられない不気味さ。身動きできない人が大勢いるに違いない、なのにそれが画面からは見えない。

時間と共に全貌が明らかになってゆき、とてつもない災害が人口過密地帯に起こった事実そのものが信じられませんでした。その場に、その倒れた建物の中に居るかもしれない友人を思うと、会社に向かわなければ行けない自分が辛かった。

後に大手ゼネコンに勤める義理の兄は、被災地の悲惨さと力強さを語ってくれました。無事で住んだ友人たちも、その惨状の中での出来事のひとつひとつを教えてくれました。

阪神・淡路大震災はその後の大規模災害への対処を考えるスタート台となりました。発災したら各地の社会福祉協議会がボランティアセンターを立ち上げる任を負うことがきまりました。社協もそのノウハウがありません。阪神・淡路大震災で鍛えられた職員やボランティアが力を付け、ノウハウを積み上げました。

それが生かされたのが311、東日本大震災でした。

ボラセン立ち上げに率先して加わり、陰に日向に現場を飛び歩く猛者のボランティア。彼らの何と頼もしかったことか。沢山のことを教えて頂きました。



復興を急がない


8年も経ったのに、何も変わっていない。そう嘆く映像が先週からテレビで繰り返し繰り返し流れます。

私は思います。「変わるはずない」と。たった8年です。復興は20年と覚悟すべきでしょう。

表面的には平らになり、新しくなり、傷跡の多くは見えなくなりました。これから先は、その深いところにあったり、隠れていたものを見つけだして、個別に直していかねばなりません。

阪神・淡路大震災(1995年)を振り返った時、どれくらいの歳月で復興したと口にできたか。私は10年がまず最初の段階の終わり、だと思います。政府もそこで支援を終えると言っています。

そこから先は自分で復興する、自立することが求められます。そのためのボランティア活動は続きますし、見えない形での相互互助は草の根の中で続くでしょう。だから発災10年の2021年は、次の段階へのスタート、つまり心の静まりを取り戻す期間の10年と考えるのが良いと思います。

震災を人間のケガに例えれば、大きな痛手を全身に受けて、疲弊した体を治し癒すのに10年。そして次の10年は心を癒す期間と位置付けてはどうでしょう。

10年ひと昔と言います。ひと昔は10年なのです。だから20年かけてふた昔を歩み、体で言えば、体も心も健康状態に戻って欲しいと思います。

復興途中の福島県南相馬市


発災から9年目。14時46分ジャスト。

黙とう。



定点観測
死亡者数:15,897人
行方不明:2,533人
震災関連死亡:3,701人


ではでは@三河屋幾朗

特集
シリーズ311/被災地に寄り添って

参考

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